私は蓼科という大自然と人間のリゾートが共生している場所に来る機会があります。普段は時に自分で自分に手を焼いて視野が狭まり、本当に見るべきものが見えない時間を過ごしていることが多い気がするのですが、ここに来るとそんな時間を忘れ、自然と心が解放される時間が持てます。
その観光ロードには、野生の動物も往来し、特に鹿をよく見かけます。春先は、多くの小鹿を見かけます。
その中に三本足の小鹿が一匹で草を食んでいるのに出会いました。
ご存知でしょうか。鹿は人間と同じように群れで生活していきます。だから、一匹というのは、とても危険が多い状況です。人が運転する車に轢かれたのかもしれないとこの鹿の身に起こった不遇を同じ人として責められる様な気持ちで想像したり、野生では、生きていけないかもしれないと、その時は、この鹿の行く末を想像して気持ちが暗澹としてきました。
夏になり、先日車で走っていると何匹もの鹿に遭遇しました。そして、大きな曲がり角でちょっと止まってみていると、そこに三本足の鹿が!
「えぇっ?あぁ、生きてたんだ、やゃ、同じ鹿かしら? えぇと、無かった足の場所はと、、、」目を凝らしていると、
そこに、二匹の鹿が寄って来ました。
皆を眺めていると、不自然な動きは無く、目を凝らして初めて足が一本足りないと気が付くくらいで、三本足でも動きが自由なので、他の鹿もそういう姿の同類なんだなと自然に受け止めている様子。三本足が、四本足と同じ動きをするためには、人間の世界なら、「努力」と言われる日々を過ごしたはずなのに、それを当たり前のこととして受け止めて日々暮らしているうちに、自由に動けるようになり、他の鹿が寄ってきて、三本足さんからも近づいて自然と群れになり、群れの動きも調和がとれて、置いてきぼりを食わず、野生で生き続けている鹿がいる。
もしかすると、この三本足さん、他の鹿とは違ったすごい取り柄があるのかも知れません。
待てよ?
春先に私が三本足と出会ったと思っていたのですが、あちらがじっと車を見ていたので、こちらが止まったのを思い出したした瞬間、主客が逆転しました。
「違ってた!!!」三本足の鹿に、私が見つけられたのでした。
食べ物でも貰えると思っていたのか、そういう経験をよくしていたのか、 他の多くの鹿なら、車の音で一目散に森の中に逃げていきます。好奇心と呼ぶのか、生まれ持ったそういう気質が、人間のそばに寄って、人間に餌を貰えたり、人間に考えさせたり、に繋がっていきます。
半面、定かではありませんが、そういう気質が車との事故を起こし足をなくしたのかも。
足が足りないのを助けてもらうどころか、そういう気質を仲間から良きこととして敬われて、仲間を率いているとしたら何とすごいことでしょう。
見えないものを見た、そんな瞬間でした。